概況

宗旨

お釈迦さまのおしえを正しく伝え、その実践に努めているのが、曹洞宗(そうとうしゅう)です。
お釈迦さまを本尊仏と仰ぎ礼拝するときは、南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)と唱名致します。
教えを日本に伝えられた道元禅師(どうげんぜんじ)を高祖とし、全国に広められた螢山禅師(けいざんぜんじ)を、太祖と尊称し、このお二方を両祖大師と申し上げ信仰の誠を捧げます。

曹洞宗とは

曹洞宗は、 仏教の開祖「釈迦牟尼仏」を ご本尊と定め、お釈迦様のみ教え (おさとりの心) を 正しくお伝えになられた 道元禅師(高祖承陽大師)、 親しくおひろめになられた 瑩山禅師(太祖常済大師)を 両祖として、 お釈迦様、高祖様、太祖様を 「一仏両祖(曹洞宗三尊仏)」とお呼びし、 人生の導師として礼拝するとともに敬慕申し上げます。

道元禅師の教えを受け継いだ4代目の瑩山禅師は、文永5年(1268年)11月21日現在の福井県武生市にお生まれになりました。 父は土地の豪族瓜生氏で、両親とも非常に信仰深い家庭でした。特に母が観音様に祈願をこめて、その霊験によってうまれたのが禅師といわれています。 この母の信仰に感化された禅師は8歳にして永平寺に登り3代徹通禅師のお弟子となることを許されました。永平寺での修行は子供ながらに厳しく、鍛えられること5年、13歳の春、2代目懐弉禅師について得度を受けました。 18歳の時、諸国行脚、修行の旅にでます。特に京都においては、何人かの名僧を訪ねて教えを受け修行を重ねました。21歳の秋、永平寺の徹通禅師のもとに戻られた禅師は、その翌年、徹通禅師のお供をして永平寺に別れを告げて金沢の大乗寺へお移りになられました。 その後、修行に励むこと7年、27歳にして禅師は「平常心是道」も公案を開き、ついに教えを体得、翌28年の正月徹通禅師の教えを継がれました。 禅師は終生、多くの寺院を開き、多数の弟子を育成されたのです。 28歳の秋、徳島県に城満寺をお開きになり、道元禅師の教えを広めました。 32歳の頃、大乗寺に帰り徹通禅師を助けて布教活動に専念するうち35歳で大乗寺2世となられました 45歳で能登に永光寺を開き、いよいよその名声があがりました。 54歳の4月、羽咋市の近くの諸嶽寺の定賢律師の願いを受け入れ、その寺にはいり、 総持寺と改めてたのです。 翌年後醍醐天皇より、「曹洞宗出世道場」という額と紫衣を賜りました。 この時から総持寺も大本山となりました。 禅師は、正中2年(1325年)の夏、病床に倒れ9月29日、58歳の生涯を閉じられました。

道元禅師がお生まれになったのは正治2年(1200)正月2日(陽暦1月26日)と伝えられます。 幼くして母の死に遭われ、人生の無常を観じ、仏門に入ることを志され、そして13歳のとき、比叡山にのぽり出家の念願を果たされました。 純粋に道を求められた道元禅師は、当時の多くの僧侶たちの堕落した姿や名誉や地位を求める風潮を目のあたりにし、それが本来の仏教とかけはなれているのではないかと疑い、24歳の時、ほんとうの仏法、ほんものの師を求めて中国に渡られました。 ときに貞応2年(1223)、大宋国では嘉定16年のことでした。 道元禅師は、尊敬する栄西禅師ゆかりの地を巡拝されながら、多くの名高い高僧に参じられ、ついに如浄禅師と巡り会うことができ、釈尊より正しく伝えられた教えと坐禅の修行を学んで、それまで抱いていた一切の疑問や迷いを解決されました。 安貞元年(1227)、日本に帰られた道元禅師は、如浄禅師より伝授された正伝の仏法である坐禅を広く一般に勧めるため『普勧坐禅儀』を著し、また京都に興聖寺を開かれて人びとを教化されました 寛元元年(1243)には越前に移られて本格的な修行道場、永平寺を開創され、坐禅を中心にした綿密な行持を行われながら、弟子たちに仏法を説き、『正法眼蔵』をはじめ多くの著作を残されました 建長5(1253)8月28日、病をえて京都におもむき、療養されるうち、54歳のご生涯を閉じられました。ほんものの仏法をもとめ、ほんものの仏道を生きられたご生涯でした。

天徳寺の伝統と寺歴

昆慮山縁起によると、当山は人皇八十八代後深草院の御宇、建長六年(一二五四年)、榮西僧正の御弟子、榮海僧正 勅命を奉じ東国に至り給う時、磐梯山北々吾妻山東々地蔵ヶ嶽三方より落つる玉川の水上に三明の霊山あり、是即、昆慮舎那佛の僧正を召せし霊地にして、御山の麓に竹庵を結び彼の長者の窪に伽藍建立、益々法運隆昌す。榮海僧正、佛天の賜いし吉祥草を持して上洛天皇に献せり。帝欣快致され、翌年倫旨を賜いて毘盧山天徳禅院と号を給う也。然るに天正の乱世に堂宇ことごとく失い、慶長年間に浦生氏会津を領せしとき、現在の会津若松市北青木の善龍寺六世龍国泉海大和尚、この地に再興せるも、その後種々の災禍や祝融にあい、無住の時代もあって資料となるべき文書もない。

近時の寺歴としては、当寺十六世千光得眼和尚の時代、明治二十一年七月十五日午前七時四十五分頃たまたま小磐梯破裂し、当地方古今未曾有の惨状を被り、寺も亦、境内の樹木径五~六尺のが一円に押倒され、堂塔伽藍も甚害あり、長瀬川と枇把沢より駆走せる岩塊泥流等のため、境内・墓地も殆ど流され又は埋没してしまった。 現在の寺は明治二十五年に寺基を定め、歴代住職復興と教化に心血をそそいで現在に至る。

伽藍現況

一、本堂  昭和五十八年四月修復落慶法要
一、庫裡  昭和四十七年九月再建落慶法要
一、山門  昭和四十一年三月落慶法要
一、舎利殿  昭和四十五年八月落慶供養
一、開山堂  昭和五十年十一月入仏落慶法要
一、経蔵  平成四年七月入仏落慶法要
歴住塔平成六年四月三十日

歴代住職

開 山  龍国泉海大和尚 天和二壬戌年八月二十九日 示寂
二 世  潮厳海音大和尚 二十九日 示寂
三 世  廊周大和尚 二十八日 示寂
四 世  乗悦大和尚 二十七日 示寂
五 世  展明大和尚 二十六日 示寂
六 世  潮厳高看大和尚 明和九申年二月七日 示寂
七 世  全達大和尚 享保五年二月十二日 示寂
八 世  興宗眠龍大和尚 寛政四子年五月十七日 示寂
九 世  棟元大梁大和尚 十二月二十一日 示寂
十 世  松嶽梁門大和尚 当代中、伽藍再建無間致焼失也
十一世  祥雲東瑞大和尚 天明八申年七月二十四日 示寂
十二世  随峯永順大和尚 寛政十二年申四月二十六日 示寂
十三世  廣屋秀天大和尚 天保丁巳年七月二十五日 示寂(伽藍再建)
十四世  定光得峯大和尚 慶応二寅年二月二十二日 示寂
十五世  當雲鶴仙大和尚 明治二十八年五月二十二日 示寂
十六世  千光得眼大和尚 明治二十七年六月十八日 示寂(噴火罹災)
十七世  雲岩活文大和尚 明治三十二年六月 示寂【田辺姓】
監 寺  園覚鼎成大和尚 (伽藍再建)【長谷川姓】
十八世  哲燦英章大和尚 昭和三十六年三月二十七日 示寂【高山姓】
十九世  玄空寛田大和尚 昭和三十三年四月三十日 示寂【細川姓】
二十世  天海一純大和尚 平成九年六月七日 示寂【細川姓】
二一世  玄海正善大和尚 平成十年四月三十日 晋山【細川姓】